新卒でうつ病になって3日で退職

新卒でうつ病になって3日で退職したあせんと(社会不適合者)の雑記ブログです

自己表現って「芸術」に限らず色んな方法があるよねと思った話

どうも。

あせんとです。

 

「自己表現」っていうと、なんか芸術作品でも作らなきゃいけないのかなだとか、高尚なものであるべきなんじゃないのかなだとかいう先入観があるかもしれませんが、全然そんなことないよねと思った話。

 

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たとえば、僕が今書いている記事だって全然「自己表現」になりえるし、そのへんのサラリーマンだって日々自己表現をしていますよね。

 

帰りの満員電車で駅員に怒鳴り散らす乗客が少し前に話題になりましたが、あれだって立派な自己表現。(良い悪いはさておき)

 

世の中を俯瞰してみると、いろいろな自己表現にあふれているなぁと思った次第です。

 

というのも、僕が通っていた学校は美術系の学校というだけあって、「芸術作品でいかに自己表現をするか」というのが至上命題となっていました。

 

作品に制作者の思いをのせる。

 

そこだけ切りとると、さも素晴らしいことをやっているように聞こえますが、やっていることは結局のところ自己満足です。オナニーです。

 

僕の同級生や、担当してくれた先生でも「作品は自己表現のためにある!」「自己表現こそが作品の全てだ!」とかいう人がたくさんいました。

 

御多分に漏れず、僕も「そうなのか。じゃあ僕も頑張って作品で自己表現してみよう!」とかやってみるわけですが。

 

作品を作っていてしばらくすると、いや、作品に自分を投影するのって嫌でもされるんじゃね?

と思い至るわけです。大なり小なりね。

 

そもそも「自己」から発信しているから、それ以外のものが作品として世に出るわけはないんです。

そんなに過剰に意識しなくても、なんか作ったら「個性」なんていやでも出てくるんですよ。

 

っていう論調で友人や先生たちにも話してみるのですが、いかんせん分かってもらえない。

 

「お前の作品は個性が足りてない!」「もっと自分を表現するんだ!」「個性が足りてないからそんなこと言えるんだ!」と。

 

 

うん。うるせーよ。

 

大きな御世話もいいところなのですが、若かりし頃の僕はそうした周囲に影響されて、美術史の勉強とかを始めてみるわけです。

 

 

ふむ。まったくわからん。

 

この作品には美術的価値が~とか、こういう表現は今までになくて~とか。

「え、それなんかすごいことなの?」という冷めた目で見る僕がいるわけなんですね。

 

友人Aはすっかり先生の言葉・作品に魅了されて芸術家の道を進むわけですが、僕はそんなに作品で自己表現にこだわる必要あるのかなぁと内心思っていたんです。

 

今思えば、進路間違えたのかも。

手に職つけようと思ってモノづくりの方向に進んだわけですが、まさか学校で自己表現至上主義者があんなにわんさかいるとは思っていなかったですからね。

 

僕からすれば、友達との何気ない会話とかも十分に自己表現たりえるし、家事をやっている主婦(夫)の方だって、家事という仕事を通して日々自己表現していると思うんですよ。

 

作品というものを高尚な産物にしたいという気持ちも分からないではないですが、それだけが自己表現だと言い切るのはちょっとなぁと思いますね。

まあ、作品でしか表現できない世界っていうのは少なからずあるんですけどね。

 

それでは。

『百合』とかいう完全に俺得なジャンル

どうも。

あせんとです。

 

先日、『百合』については後日触れると言いました。

 

百合。

百合とは何か。

What's Yuri?

 

Wikipedia様から引用。

百合 (ジャンル) - Wikipedia

 

つまり、簡単に言うと「女性同士のキャッキャウフフ」のこと。

 

もっと性的な表現を含ませるならば、「抱き合ったり、キスしたりする女性同士のくんずほぐれつのこと」

 

もう一度言います。

 

「女性同士のくんずほぐれつのこと」

 

これを『百合』と言います。

 

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また、それを外部から眺めて精神的な高揚感・充足感を覚える男性のことを百合男子と言います。

 

一昔前に、「~ちゃんは俺の嫁!」なんてものがオタク界のみならず一般世間にも知れ渡るようになりましたね。

 

百合男子、もとい百合愛好家はそんなものは求めていません。

 

 

俺は!俺たちは!

「女の子たちのキャッキャウフフが見たいんだ!」

 

我々百合男子からすると、「~ちゃんは俺の嫁!」なんていうものは時代遅れといってもいいでしょう。(単に趣味趣向の違いの話かもしれませんが)

 

百合をこよなく愛する百合愛好家たちにとって、野郎は要らないのです。むしろ邪魔。

 

僕たちは女の子たちが同性を好きになってしまったことに対する心理的葛藤や、仲良く手をつないだり抱き合ったりするスキンシップが見たいのです。

 

そんな女の子同士のコミュニケーションを至上命題とする僕たちにぴったりの言葉があります。

 

俺の嫁なんていねぇ!

(「俺の嫁なんていねぇ!」 倉田嘘 YIRIHIME COMICS 一迅社より)

 

 

もう少し引用しましょうか。

 

百合はいい・・

 

女の子だけの世界だからこその繊細な心の動き 温かさ

 

打算と駆け引きを伴う痛み

 

そしてあらゆる困難を乗り越える強い絆

 

男の想像をはるかに超える研ぎ澄まされた精神世界

 

・・・(中略)

 

男性向けとは一線を画す精神的つながりの延長線上にある裸体表現

 

ゆえに18禁でありながら実用性とはゆかりの無い矛盾した代物!

 

だが それがいい!

(『百合男子』 倉田嘘 YIRIHIME COMICS 一迅社より)

 

 

 お分かりいただけましたでしょうか。

 

『百合』に男は必要ないんです。

たまに 女性同士のキャッキャウフフの間に、いわゆる「ふたなり」だったり「逆ハーレム」だったりが存在する本もあります。

 

が、この場であえて言わせてもらおう。

 

百合に男は必要ない。

 

そういうのを百合百合詐欺って言うんだよ!覚えとけ!

 

ふたなり」における男性器は文字通り男性・攻撃性の象徴。

それを女性性に取り付けようだなんて愚の骨頂。

女性にはない攻撃性や性器としての欠陥部分を補おうとする越権行為です。

逆ハーレムなんてもってのほか。

 

そうではなく、女性同士であるからこそのしなやかで繊細な精神表現、女性を愛するが故の細やかな心理的葛藤が百合の醍醐味なのです。

 

それを遠くの方からただただ眺めていたい。

僕たち百合男子の仕事はそこにあるのです。

 

僕の大好きな『ラブライブ!』にも百合表現は存在し、それを愛する百合愛好家はたくさんいます。

 

実際、月に一度開催される『僕らのラブライブ!』では多くの百合作品に出会うことができます。

僕の生きる希望となっています!ありがとうございます!

 

ちなみに、『ラブライブ!』での僕の好きなカップリングは「うみえり」となっています。

 

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それから、『ラブライブ!サンシャイン!!』では「ようりこ」がベストカップリングだと思っています。

 

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ラブライブ!』→一つ年上のお茶目で大人なお姉さまと、それに振り回される大和撫子のキャッキャウフフ。

ラブライブ!サンシャイン!!』→同年代であるが故の近しい心理的距離の中に潜む、お互いを想い合うきめ細やかな精神表現。

ふむ。萌えざるを得ない。

 

百合には無限の可能性を感じます。

僕としては、より良質な百合作品に出会うべく日々邁進していく所存でございます。

 

それでは。

自殺や過労死、離婚、少年非行などの社会病理

どうも。

あせんとです。

 

昨今、日本では自殺や過労死が問題になっていますね。

日本では平成10年から23年までの間、自殺者が軒並み3万人を超え続けたことで大きな問題となりました。(ちなみに28年、前年度は約21,00人だとされています)

 

http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/16/dl/1-01.pdf

(引用元:厚生労働省

 

他にも、熟年離婚の増加、少年非行の増加、ストーカー被害の増加等々、社会には問題が絶えません、

そうした社会の問題を「病」として捉え、学問として扱うのが「社会病理学」という学問です。

 

 

 

社会病理学では、個人の精神的な特質によるよりも、社会側にそれらの問題を作り出す要因があるのだとして、それらの諸問題を捉えます。

 

たとえば、自殺は最終的には個人の特質によるものであるとして捉えられがちです。

 

人間個人の精神的な強さ。耐久性。我慢強さ。

確かにそれらは重要なファクターかもしれません。

 

ですが、これほどまでに大きな問題を作り出している社会側にも問題があるのではないか。

社会病理学はこのように物事を捉えてこれを研究します。

 

たとえば少年非行を例にとると、非行歴の多い少年少女には、親がどちらか欠けていたり、両親が実父母でない単身家庭が多いです。

 

また、親がいたとしても酒乱であったり、前科者、失業者、長期不在者、異性関係の乱れがあったりして、子供の監護能力に乏しい親や家庭環境であることが彼ら/彼女らを非行に走らせます。

 

加えて、親の養育態度も「放任」であることが多く、親が子供に関心を持てない環境でいることが何より少年少女たちを非行という問題に直面させやすくします。

 

こうした環境的・社会的側面から一つの家庭を俯瞰した時に、種々の問題が「社会病理」として捉えられるのです。

 

 

 

親との情緒的なつながりは、子供が健康に育つための栄養素のようなものです。

人間にとって必要な三大栄養素と言われるタンパク質や脂肪、炭水化物の摂取が大事であるように、子供には親との情緒的な絆が何よりも大事なのです。

 

これら以外にも、社会が少子化、高齢化、都市化していく中で生じる問題も社会病理として捉えられることもあります。

 

社会問題に関心のある方は一度、社会病理について勉強されてみると新たな知見を獲得することができるかもしれませんね。

 

まぁ、社会病理一本で世の中理解できるほど、世界は単純にはできていなんですけどね。きっと。

 

それでは。

 

人間の心は心理学では分からないということが分かった

どうも。

あせんとです。

 

ちょっと挑戦的なタイトルにしてみました。

 

心理学はヒトの行動のもととなる人間心理を定量的に計測しようとする学問ですが、心理学を学んだ僕から言わせてもらえば、心理学で人の心は分かりません。

 

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人間心理のアウトラインが理解できるだけです。

 

では、最近流行りの脳科学では人の心が解明できるのか?

答えは分かりません。

 

脳科学はまだ発展途中の学問分野なので、現在分かっているだけの情報では人間心理を脳に還元できるかというのは不確かだと思います。

 

「じゃあ、どうやったら人の心は理解できるの?」という声が聞こえてきそうです。

はたまた、「じゃあ、心理学って役に立たないじゃん」とも。

 

そう問うてくる方にはこう答えようと思います。

 

 

んなもん分かんねーよ!

 

だって「学びたい」から学問するんでしょ!?

役に立つかどうかなんて、そんなこと先に考えたってどうしようもねーだろ!

 

僕だってそうでした!

人間心理が知りたくて心理学を学んだらそこから波及的に精神医学、哲学、社会学、宗教学、脳科学やらを勉強しました!

でも、人間心理なんて分かりっこないということが分かっただけでした!

終わり!

 

でも、学問なんてそんなものなのかと思います。

全てを理解してしまったらそれはもう『真理』に行き当たったということです。

それ以上追求する余地はありません。

 

そういう意味では「人間心理なんて分かりっこないということが分かった」というのはある種の真理かとも思います。

 

ただ僕が浅学であるだけかもしれません。

浅い知識で物事を判断しているにすぎないのかもしれません。

 

では、学者や研究者は人間心理について理解しているのか?

恐らく、答えはNOだと思います。

 

分からないから、学ぶ。

理解したいから、勉強する。

 

心理学に限らず「学ぶ」ということは、大海原に浮かぶたったひとつの小さな島を見つけようとする作業なのかもしれません。

 

それでは。

【書籍】「愛するということ」を読んでみたよ

どうも。

あせんとです。

 

みなさん、少なからず興味あるんじゃないかなぁと思います。「愛」。

僕も若かりし10代の頃は「愛」について毎日考えていました。

 

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書籍の中では「愛」についてこう述べられています。

 

愛とは、特定の人間に対する関係ではない。

 

愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度・性格の方向性のことである。

 

もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。

(新訳版「愛するということ」 著:エーリッヒ・フロム 訳:鈴木晶

 

なるほど。

では、「愛」をたった一人の人に対してしか向けられない人というのは、そもそも本質的な意味で「愛」が備わっていないのだと、フロムはこう言っているわけですね。

 

また、こうも言っています

 

愛するということは、何の保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。

 

愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。

 

結局のところ、僕なりに解釈すると「見返りとか求めないでとりあえず相手のことを愛してみろよ」ってことなのかなと思います。

 

では、人を愛するには何が重要なのか?

書籍の中でフロムは、それは「能動性」であると言います。

 

能動的に人に関わることができれば、そこに愛は生まれる。

逆に、人と関わることに対して消極的であれば、愛は生まれづらい。

 

これは決してウェーイ系のリア充よろしくをやれってことではなく、その人がどんな姿勢で人と関わろうとしているかが重要なのだと、そう言っているのだと思います。

 

「愛」に積極的で能動的に関われる人とはどのような人か。

 

恥ずかしながら、僕は「愛」と聞いて真っ先に自分の母のことを思い浮かべました。

 

母は、たとえば遠方から親戚が遊びに来た時などは家族の誰よりも早く、率先して親戚たちをもてなします。

人数分の飲み物を用意し、「お腹空いてない?」と聞いた時にはすでに人数分の料理を作っています。

 

それは誰に言われるでもなく、母が率先して「そうしたいからそうしている」事なのだと思います。

 

他者への気づかい・思いやり・やさしさ。

そういった感情が母をそうした行動へと突き動かしているのだと思います。

 

逆に、「愛」に消極的な人とはどのような人か。

 

それは「愛されることを期待している」人だと断言できます。

 

世の中にはこういう人が本当に多いです。

自分が他者に対してなにができるか? ではなく、どうしたら相手に愛されるか? を期待するばかりで、能動的に人に関わるようなことはしません。

 

おじさんにお小遣いをもらって愛人をする女性なんかがいい例だと思います。

彼女たちは「金」という報酬を得て、見掛け倒しの「愛」をおじさんたちに振りまきます。

 

しかし、それは決してその人を愛しているわけではありません。

「金」という報酬が得られなくなったら、彼女たちはすぐにその人たちのもとを去っていくことでしょう。

フロムはこうした人間を「愛することができていない」と喝破するわけです。

 

人を愛するということは、「もしかしたら何の価値も生まれないかもしれない」「自分が愛をふりまいたところで、何にもならないかもしれない」という不安と闘うことではありません。

 

愛とは、確信をもって「相手に愛が生まれるだろう」と信じて行動することなのです。

 

 

うん。ちょっと説教臭くなっちゃったね。

 

簡単にまとめると、「自分は人を愛することができる存在なんだから、自分を信じて積極的に他者を愛していこうぜ」ってことです。

 

自分が全力で愛した結果、相手には何も生まれないかもしれません。

むしろ、ウザがられることだってあるかもしれません。

 

しかし、そんなことはどうでもいいのです。

 

自分が己の「愛」について信じて行動すること。

行動する理由はそれだけで十分なんです。

 

それでは。